日本で最初のシンガーソングライター、と言われる
美輪明宏(当時は丸山明宏)が「ヨイトマケの唄」を発売した直後のこと、
TBSの前にあった喫茶店”アマンド”で、坂本九は美輪明宏に深々と頭を下げた。
「”ヨイトマケの唄”をぜひ歌わせてください」
“夢で逢いましょう”などで共演していた美輪は、九がお母さんを大切にしていたことを知っていたので、
「あなたお母さん想いだから、お母さんに歌ってあげたいんでしょう」と
その想いを察し快く快諾したという。
実はその時、坂本九の母親「いく」はすでに入院し容体は日に日に悪化していた。
そんな中、お母さんを元気づけるために「ヨイトマケの唄」を歌いたい、という強い願いがあったのだ。
昭和40年6月27日朝、病室で九は母いくに、
「今日はお母ちゃんがきっと喜ぶ唄をコンサートで歌ってくるよ。録音してくるから、楽しみに待っててね」
そう言って仕事場へ向かった。
京都会館で行われた坂本九グランドリサイタル、出番を待つ九のところに、
当時舞台監督をしていた永六輔が近寄ってこう囁いた。
「今日は、お母さんのために歌いなさい」
この言葉に、母の死を悟って舞台へ向かい、九は涙ながらに「ヨイトマケの唄」を歌った。
母への感謝の想いをこめて。
NHK歌謡コンサートの出演をきっかけに、番組スタッフの方を通じて、
美輪明宏さん主演の舞台「黒蜥蜴」を観劇させていただいた後
楽屋にお邪魔する幸運に恵まれました。
恐れ多くも「ヨイトマケの唄」をカバーさせていただいているということを美輪さんにお伝えすると、
坂本九がこの曲をカバーした初めての歌手だったこと、
歌わせてほしいと美輪さんに直接申し出たときの様子などを、細かく教えていただきました。
そして、2016年11月、東京都人権センター主催の大島花子コンサートに
トークゲストとして美輪さんが出演くださったときには
わたしの歌う「ヨイトマケの唄」を舞台袖からじっと見守っていてくださったのです。
その後、この歌のできたいきさつ、モデルとなった数組の親子の話をたくさん教えていただきました。
想像しきれない苦労を乗り越えた愛に溢れる親子の物語に、ステージ上で涙をこらえることができませんでした。
そして最後に、
「あなたのような若い世代の方が歌ってくださったほんとうにうれしい、
どうぞ、これからも歌いつづけてください」
そうメッセージをくださったのです。
いつも、この唄を歌う時は、手ぬぐいを首に下げて授業参観に来た
お母さんのことを、美輪さんのことばを胸に歌わせてもらっています。